カテゴリー別アーカイブ: コミュニケーション

言葉にする義務感

ベルリン郊外・オラニエンブルグにあるザクセンハウゼン強制収容所跡を訪ねた。ミュージアム、と名付けられているが屋内ではなく、収容所跡の広大な土地を歩く。オーディオガイド3.5ユーロのほかは“入場”無料。イヤフォンを耳に入れて事務所棟を出る。

収容所入り口まで、高い壁に沿って歩く。右手にSS本部の建物。こじんまりしていて、SSの厳めしさはまったくない。だが反対を向くと収容所入り口。以前訪ねたダッハウの収容所跡にもあった、“ARBEIT MACHT FREI”(働けば自由になる)の鉄門が当時の”地獄”を隔てている。中は門から見て扇状に広がっており、砂利が敷かれた建物跡が190ヘクタールの広大な土地に並んでいる。ドイツ最大の収容所で、とにかく広すぎる上、バラックや刑務所など気持ちが重くなる場所だから、ここを見学する日はおそらく誰にとっても、心身ともに疲れる1日だ。

塀の外、すぐ近くにはきれいな一戸建てが並ぶ住宅街がある。今は普通の民家だが、当時ナチスの親衛隊が家族でそこに住んでいたそうだ。そう教えてくれたのは、ベルリンに住み、ここの大学院で第二次大戦を研究していた日本人女性。たまたまこの日は交通機関が一部ストを決行していて、ベルリンに戻るために別の列車を待たねばならないかと迷っていたら、頻繁に発着する近距離線で戻れると教えてもらい、同じ電車に乗りこんで帰途、話が弾んだ。ドイツを旅した感想を聞かれ、「この国は、戦争の記憶を刻み込むことにほとんど強迫的とも言える義務感を持っているように見える」というと、「言葉にすることへの執念」が日本とは異なるかもしれない、と、大学院時代の論文執筆の苦労を語ってくれた。

言葉の定義を固め、一つ一つ根拠を示して論筋を明確にし、なぜそう考えるかという理由に説得力ある理論の積み重ねを求める。その重要性に独仏の差はない。「なんとなく」は許容されない。だからこそ、戦争の記憶についても一つ一つ検証してそれを言葉にし、相対的な出来事と絶対的な倫理を混同せず、普遍的倫理に反した行動は悪であることを何度でも口にし、書き、話し合って確認する。ドイツは記念碑大国と言われるほど記念碑が多い。記憶にとどめるため、考えるために「表現」する。そういう思考過程の先端に、今のベルリンは立っている。

翻って日本はどうだろうか。「遺憾に思う」「深い反省の念」という言葉を、私を含めどれだけの人がしっかりと定義してきただろう。「遺憾」というのは、「期待通りにならず残念に思うこと」だ。たとえば中国や韓国の戦争被害者を相手にこの言葉を使うのは、どんなに好意的に見ても眉を顰めざるを得ない。穿った見方をすれば、勝てると思ったのに敗戦した、仕方なかった、とすら聞こえる。「深い反省の念」は確かに一歩前進した表現だ。反省は「自分の言動を省みてその可否を考えること」であり、「良くなかった点を認めて改めようと考えること」だから。ただし、これも自らを省みるという自己完結で、その行動が影響を及ぼした相手に対してかける言葉にはなっていない。遺憾に思い反省をしても、謝罪したことにはならない、という批判は、翻訳すると良く分かる。どの言語に訳しても「謝罪」とは別次元の語彙なのだ。

帰国してからも、彼女とはメールのやりとりが続いている。言葉にし表現して初めて、そこに在るものとして認知されるという明確さ、逆に言えば言葉の繊細さを共有できる人との出会い。ホロコーストの歴史をたどる重い旅の中で、心弾む出来事の一つだった。

リスンブール

私にとってSNSは、フォローしているアカウントから流れ込むフィードを読むだけの、かなり受動的なメディアだが、時々面白すぎてこちらから積極的に「読みに出かける」ことがある。ここ数日、盛り上がりっ放しのリスンブールがそれだ。

フランス人が、ポルトガルとスペインの向こう側に架空の国を作ってその地図をツイッターにアップ。「アメリカ人がこの国の名前を知らないだろうことは確かだね」とつぶやいた。アメリカ人の”地理音痴”をいじって楽しむつもりだったと思われる。

GasPardoさんのTwitterから

ところがあっという間にリプライが膨張。「リスンブール国」の政府公式アカウントができ、国旗、国歌もアップされ、各省庁、中央銀行もできた。「この国の自然の風景は美しい」と写真をアップしたり、「リスンブールの歴史はプラトンの時代までさかのぼる。他国よりかなり技術が発達していたことが分かる」と古文書の写しをアップしたり、「フランスのルイ14世は太陽王と名乗ったが、実はリスン15世の方が先に太陽王と名乗っており、ルイ14世はそれを真似、リスン王を怒らせた」という”史実”が出てきたり。欧州議会の院内会派はリスンブールのEU加盟を支持し、遂にこれを見つけたらしい日本人が、リスンブールに日本大使館を置いた。

フランス国内では、ホンモノの政治家もきちんと反応。社会党のオリヴィエ・フォールは「リスンブールの社会党との連帯を表明します。ヨーロッパの社会と環境のために」とツイート、元大統領候補だったジャン・ラサールは「私は昨日、リスンブールの農業博に行き、リスンブールの伝統的な羊毛のアトリエを訪ねました」と、広がり続けるミームに乗っかっている。

フランスのメディアも、久しぶりの面白ネタに飛びついて、どこも記事化。ミームフェスタは、旧来メディアのニュースになる時代だ。

民主主義に必要なもの

世界のどこを見回しても、民主主義は危機に瀕しているようにみえる。

多数者支配の民主主義ではなく、少数者の人権も考えたうえでの「立憲」民主主義。自由と平等、という相反する権利を調和させる、その落としどころ。

そもそも、国会議員は選挙区の有権者の利益代表ではなく、「全国民の代表」なのだから、この国の行方について俯瞰的な視点に立って考え、立法する義務がある。有権者の声を聞き、丁寧な手当てをするのはもちろん大切だが、その先も必要だ。大局的な舵取りというのは手間も時間もかかるが、ある程度の「見通し」がなければ刹那的な切り張り政治になりかねない。「スピード感をもって」という政治家の言葉を聞く度に、民主政治というのは、ほかのどんな政治体制よりも時間がかかる、面倒なものではなかったか、とふと思う。効率的に、速攻で何かをやろうとするから迷走するのではなかろうか。

諸々考えていた時に手にとった、「欲望の民主主義」(丸山俊一著・編)。世界の危機的な民主主義について、各国各界の人々の言葉がまとめられている。

この危機的状況を、フランスのジャン・ピエール・ルゴフは「パイロットがいない飛行機」と形容する。細かい政策と同時に大きなビジョンが必要であるはずなのに、それがない現状は、機械整備はできていても、どこに飛んでいくかという目的地が定まっていない飛行機と同じ。パイロットがいないのだ、と。

Le débatの編集長だったマルセル・ゴーシェは、「理性が機能していないから民主主義は沈滞する」という。民主主義の前提は、議論という言葉による戦い、隣人との問題の共有であり、そこに必要なのは理性と信頼だ。民主主義の役割は、問題を解決することより先に、まずみんなが共有すべき問題を提示することにある、と。たとえば改革が必要だ、というなら、改革すべきという問題の「根拠」が必要だし、それをみんなで共有するのがスタート地点だが、その根拠を共有できるだけの「信頼」が今は成り立っていない。

世界中どこを見渡しても、ゴーシェが言うところの、多くの人に「共有される診断」を確立することができていないように見える。Aという問題がある、ということをみんなが共有したうえで、その解決方法について喧々諤々、というのではなく、そもそも問題の所在そのものについて、誰も同意できていない。何が問題なのか、について、じっくり深く議論できない。議論しようとしても、各人が立っている足元の情報が共有されていないからだ。これでは議論にならない。

政治家の資質を批判するのは簡単だが、そもそも彼らを選んでいる我々自身の間に、きちんとした議論はなされているか、確かな情報を共有しているか、できていないならどうすべきか、という自問が必要だ。冷静に、理性をもって。

Il nostro dilemma sociale

Ho visto il film documentario americano “Il nostro dilemma sociale”. Tratta prevalentemente gli aspetti negativi di internet soprattutto delle applicazioni SNS e Google, però insiste anche su quelli positivi in senso che questa tecnologia ci permette di fare tante cose facilmente e velocemente anche senza frontiere, e ci dà ancora le cose divertenti. Pare che non possiamo lasciarla, ma è sicuro che questa tecnologia ha generato tanti problemi sociali. I professionisti che lavorano in Silicon Valley non hanno ancora trovato la soluzione e penso che questo fatto sia il più grande problema.

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”問題ない”ことの問題

17世紀から、フランス語の守護者として機能してきたアカデミー・フランセーズ。辞書編纂を軸に始まった学士院の一つだが、長年にわたりフランス語の質を維持するという役目を負い、会員は任命されれば”終身”の名誉。哲学者、文学者、科学者から政治家まで、さまざまな分野の偉人が名を連ねる。その会員だったJean d’Ormesson(ジャン・ドルムソン)とJacqueline de Romilly(ジャクリーン・ドゥ・ロミリー)の著書を読んだ。言葉の持つ力が、絹糸で紡いだ刺繍のように浮かびあがり、控えめでありながら光沢のある文章に酔った。

たまたまイタリア語の授業で、「言葉の移り変わりをどう考えるか」というテーマで議論が進行中。ロミリーの著書”Dans le jardin des mots”(言葉の庭で)は示唆に富み、読み返している。言葉の変遷は自然なことと受け止めつつも、フランス語の守護者として、さまざまな理由から残しておきたい言葉、意味、ニュアンス、そして言葉が経てきた歴史の消滅を防ぎたいという強い意思が感じられる箇所が多い。

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広報誌

「デジタルシフト、オープンガバメント、ワークスタイルイノベーション」。都の広報誌にあった「シン・トセイ」の「コア・プロジェクト」だ。「デジタルトランスフォーメーションの推進を梃子として、都政のQOS(クオリティ・オブ・サービス)を向上させる」のだそうだ。

この広報誌が届いた日、たまたまイタリア語の文法書を読んでいて、「外来語の複数形は?」という項目に目がとまった。イタリア語にももちろん英語や日本語が語源の「外来語」があるわけだが、これを複数形にする時はどうするか?という話。基本的にイタリア語の複数形は、単語の最後が”i”になったり”e”になったりする。一枚のお皿、ピアット(piatto)は2枚になるとピアッティ(piatti)に、一枚のピッツァ(pizza)で足りなければ、2枚のピッツェ(pizze)を注文することになる。

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スモール・ワールド

コロナで始まり、コロナで暮れる一年。年末になると毎年、その一年をまとめる文章に”激動の”とか、”変化の”という見出しがつくが、今年はおそらく第二次大戦後、少なくとも私が知るこの半世紀近くに限った間でも、この見出しが最も似合う年だったのではないかと思う。目に見えること、見えないこと、あらゆることがドラスティックに変わった一年だった。そしてその変化が、世界中で同時に起きた。数日前に南極でコロナ感染者が確認され、これで世界のすべての大陸にコロナが広がったという報道は、自分が生きているこの時代、この世界がどんなふうにできているかをとても端的に見せてくれた。どこにでも行ける、そして逃げ場所はどこにもないスモール・ワールド。”6次の隔たり”は当然のことながら、ウイルス伝播網の狭さでもあった。

ネット上で発信する人が他国に比べて少ない日本の特性が、今まで以上に見えた年でもあり、多様性に乏しい日本のネット上には「集合知」が成立しないと指摘する人もいた。紙かネットか、というツールレベルの問題で足踏みする人も多く、技術は世界トップレベルなのに、ユーザーやコンテンツは”ガラパゴス”と揶揄されることもあり、反論は難しい。図書館や美術館、Moocやデジタルアーカイブなど、さまざまな分野で日本の対応がかなり遅れていると感じている人は多い。好みの問題は脇に置き、ウイルスに背中を押されて進むことができるなら、このコロナ禍にも多少の積極面を見出せる日が来るかもしれない。

言葉の力

学生の頃、「演説・談話分析」という講義があった。政治家の演説はもちろん、新聞記事や雑誌のコラムに至るまで、さまざまな種類の文章を複数の要素で分析し、話者の本来の、ある意味隠された意図を読み取る手法を学ぶ。日本ではざっくり”メディアリテラシー”という分野に含まれているが、根本的に異なるのは、批判的かつ言葉の定義にさかのぼった明確な分析である点。例えば日本の新聞社が展開するリテラシー教育は、「ニュースソースが不確かなネット記事ではなく、新聞記事を読もう」とか、「新聞はどうやってできているのか」という話を前提に、記事を読んでその話題について議論し理解を深める内容が主軸になっているが、これはあくまでも「新聞を活用する」教育であって、記事自体を詳細に分析するリテラシー教育とは一線を画している。(もちろんこの場合、メディアリテラシーを教える主体がメディアなのだから限界があるのは仕方ないことだが)

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GPSの今年らしさ

息子がまだ学校に通っていたころ、子供用の携帯電話で居場所が分かるサービスを利用していたことがあった。ちょうど学校帰りの時間、今どのあたりかな、と何気なくサーチをかけたらなんと彼はカリブ海のキューバにいた。何度サーチをかけても、彼の携帯位置は地図上でヒューンと海を越えていく。いったいどういうことなのか、仰天して買い物を終えたスーパーの前で携帯画面を凝視していたら、ちょうど地下鉄駅から出てきた息子と遭遇。「あなた今、キューバから帰ってきたわけね」と顛末を話して爆笑したことがある。数百メートルならまだしも、国境まで越えられるとさすがにGPSの誤差という次元の話ではないから、まあそういうトンデモな不具合が時々は起きるのがモノと技術の限界、利便性に流されたデータ妄信への戒めとした。

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ボッカッチョは読めない

新型コロナウイルスの感染拡大が始まった頃、14世紀のペストが引き合いに出され「デカメロン」の著者、ジョヴァンニ・ボッカッチョが改めて注目された。イタリアでは実際、現代版デカメロンも綴られ、ネットで話題になっている。目下第二波対策で再度の行動制限、各種施設の閉鎖などで、デカメロンの世界はまだ終わりが見えない。そのボッカッチョが書いた文章は、今のイタリア語とはかけ離れていて、「現代語訳じゃないと読むのはかなり困難」とイタリア人のマルコは言う。「ガリレイの書いたものなら読めるけどね」と。

ガリレオ・ガリレイは16世紀だ。ということは、ボッカッチョから200年の間にイタリア語はかなり変化した、ということだ。仮にラテン語を勉強していたらボッカッチョも読める?と聞いてみたが、マルコの答えはノー。語源に近い、ということでもないらしい。日本の昔の文学は今の日本人も読めるの?と逆質問され、源氏物語くらい古いと個人的には現代語訳が必要だけど、14世紀だと鎌倉時代あたり、まあざっくり意味はとれるんじゃないか、と答えたが、正直自信がない。かなりじっくりゆっくり読んでも半分くらいかもしれない。

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