民主主義に必要なもの

世界のどこを見回しても、民主主義は危機に瀕しているようにみえる。

多数者支配の民主主義ではなく、少数者の人権も考えたうえでの「立憲」民主主義。自由と平等、という相反する権利を調和させる、その落としどころ。

そもそも、国会議員は選挙区の有権者の利益代表ではなく、「全国民の代表」なのだから、この国の行方について俯瞰的な視点に立って考え、立法する義務がある。有権者の声を聞き、丁寧な手当てをするのはもちろん大切だが、その先も必要だ。大局的な舵取りというのは手間も時間もかかるが、ある程度の「見通し」がなければ刹那的な切り張り政治になりかねない。「スピード感をもって」という政治家の言葉を聞く度に、民主政治というのは、ほかのどんな政治体制よりも時間がかかる、面倒なものではなかったか、とふと思う。効率的に、速攻で何かをやろうとするから迷走するのではなかろうか。

諸々考えていた時に手にとった、「欲望の民主主義」(丸山俊一著・編)。世界の危機的な民主主義について、各国各界の人々の言葉がまとめられている。

この危機的状況を、フランスのジャン・ピエール・ルゴフは「パイロットがいない飛行機」と形容する。細かい政策と同時に大きなビジョンが必要であるはずなのに、それがない現状は、機械整備はできていても、どこに飛んでいくかという目的地が定まっていない飛行機と同じ。パイロットがいないのだ、と。

Le débatの編集長だったマルセル・ゴーシェは、「理性が機能していないから民主主義は沈滞する」という。民主主義の前提は、議論という言葉による戦い、隣人との問題の共有であり、そこに必要なのは理性と信頼だ。民主主義の役割は、問題を解決することより先に、まずみんなが共有すべき問題を提示することにある、と。たとえば改革が必要だ、というなら、改革すべきという問題の「根拠」が必要だし、それをみんなで共有するのがスタート地点だが、その根拠を共有できるだけの「信頼」が今は成り立っていない。

世界中どこを見渡しても、ゴーシェが言うところの、多くの人に「共有される診断」を確立することができていないように見える。Aという問題がある、ということをみんなが共有したうえで、その解決方法について喧々諤々、というのではなく、そもそも問題の所在そのものについて、誰も同意できていない。何が問題なのか、について、じっくり深く議論できない。議論しようとしても、各人が立っている足元の情報が共有されていないからだ。これでは議論にならない。

政治家の資質を批判するのは簡単だが、そもそも彼らを選んでいる我々自身の間に、きちんとした議論はなされているか、確かな情報を共有しているか、できていないならどうすべきか、という自問が必要だ。冷静に、理性をもって。