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リスンブール

私にとってSNSは、フォローしているアカウントから流れ込むフィードを読むだけの、かなり受動的なメディアだが、時々面白すぎてこちらから積極的に「読みに出かける」ことがある。ここ数日、盛り上がりっ放しのリスンブールがそれだ。

フランス人が、ポルトガルとスペインの向こう側に架空の国を作ってその地図をツイッターにアップ。「アメリカ人がこの国の名前を知らないだろうことは確かだね」とつぶやいた。アメリカ人の”地理音痴”をいじって楽しむつもりだったと思われる。

GasPardoさんのTwitterから

ところがあっという間にリプライが膨張。「リスンブール国」の政府公式アカウントができ、国旗、国歌もアップされ、各省庁、中央銀行もできた。「この国の自然の風景は美しい」と写真をアップしたり、「リスンブールの歴史はプラトンの時代までさかのぼる。他国よりかなり技術が発達していたことが分かる」と古文書の写しをアップしたり、「フランスのルイ14世は太陽王と名乗ったが、実はリスン15世の方が先に太陽王と名乗っており、ルイ14世はそれを真似、リスン王を怒らせた」という”史実”が出てきたり。欧州議会の院内会派はリスンブールのEU加盟を支持し、遂にこれを見つけたらしい日本人が、リスンブールに日本大使館を置いた。

フランス国内では、ホンモノの政治家もきちんと反応。社会党のオリヴィエ・フォールは「リスンブールの社会党との連帯を表明します。ヨーロッパの社会と環境のために」とツイート、元大統領候補だったジャン・ラサールは「私は昨日、リスンブールの農業博に行き、リスンブールの伝統的な羊毛のアトリエを訪ねました」と、広がり続けるミームに乗っかっている。

フランスのメディアも、久しぶりの面白ネタに飛びついて、どこも記事化。ミームフェスタは、旧来メディアのニュースになる時代だ。

民主主義に必要なもの

世界のどこを見回しても、民主主義は危機に瀕しているようにみえる。

多数者支配の民主主義ではなく、少数者の人権も考えたうえでの「立憲」民主主義。自由と平等、という相反する権利を調和させる、その落としどころ。

そもそも、国会議員は選挙区の有権者の利益代表ではなく、「全国民の代表」なのだから、この国の行方について俯瞰的な視点に立って考え、立法する義務がある。有権者の声を聞き、丁寧な手当てをするのはもちろん大切だが、その先も必要だ。大局的な舵取りというのは手間も時間もかかるが、ある程度の「見通し」がなければ刹那的な切り張り政治になりかねない。「スピード感をもって」という政治家の言葉を聞く度に、民主政治というのは、ほかのどんな政治体制よりも時間がかかる、面倒なものではなかったか、とふと思う。効率的に、速攻で何かをやろうとするから迷走するのではなかろうか。

諸々考えていた時に手にとった、「欲望の民主主義」(丸山俊一著・編)。世界の危機的な民主主義について、各国各界の人々の言葉がまとめられている。

この危機的状況を、フランスのジャン・ピエール・ルゴフは「パイロットがいない飛行機」と形容する。細かい政策と同時に大きなビジョンが必要であるはずなのに、それがない現状は、機械整備はできていても、どこに飛んでいくかという目的地が定まっていない飛行機と同じ。パイロットがいないのだ、と。

Le débatの編集長だったマルセル・ゴーシェは、「理性が機能していないから民主主義は沈滞する」という。民主主義の前提は、議論という言葉による戦い、隣人との問題の共有であり、そこに必要なのは理性と信頼だ。民主主義の役割は、問題を解決することより先に、まずみんなが共有すべき問題を提示することにある、と。たとえば改革が必要だ、というなら、改革すべきという問題の「根拠」が必要だし、それをみんなで共有するのがスタート地点だが、その根拠を共有できるだけの「信頼」が今は成り立っていない。

世界中どこを見渡しても、ゴーシェが言うところの、多くの人に「共有される診断」を確立することができていないように見える。Aという問題がある、ということをみんなが共有したうえで、その解決方法について喧々諤々、というのではなく、そもそも問題の所在そのものについて、誰も同意できていない。何が問題なのか、について、じっくり深く議論できない。議論しようとしても、各人が立っている足元の情報が共有されていないからだ。これでは議論にならない。

政治家の資質を批判するのは簡単だが、そもそも彼らを選んでいる我々自身の間に、きちんとした議論はなされているか、確かな情報を共有しているか、できていないならどうすべきか、という自問が必要だ。冷静に、理性をもって。