月別アーカイブ: 2020年11月

Dove si trova la saggezza

A causa del coronavirus, tante cose sono cambiate. Il modo di lavorare, di viaggiare, di fare feste e riunioni familiari è cambiato. Si deve abituarsi a un nuovo modo di vivere quindi si vede piuttosto un lato negativo ma ci sono certo dei lati positivi per tutti. Per esempio, all’università, trasferendo il corso fisico a quello online, mi sembra che, in Giappone, l’idea stessa di università sia piano piano riemersa.

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CERCA, TROVA 

箱の中に偽物のトカゲを隠しておいて、友人を驚かせる。ヴァザーリが書き残したダ・ヴィンチの人間像には、科学や美術、解剖学から工学まで知り尽くした天才の、日常の息づかいが感じ取れる。動物好きだったことはよく知られているが、ヴァザーリはダヴィンチが徹底したベジタリアンだったと書いている。肉食を殺人と同等の殺戮だと非難し、市場で檻に入れられた動物を見つけると即刻それを買い、放してやったという。ヴィーガンではなかったにせよ、ルネッサンス期にここまで徹底した反肉食。4世紀を経て医学や技術が猛烈に進んでも、人々の足元にある議論というのはあまり更新されないものなのかもしれない。換言すれば、こういう多様性は時代を問わないということだ。

鏡文字、右から書かれた文章など、隠された「コード」という魅力が散りばめられた彼の足跡に、心惹かれる人は多い。極めつけが壁画「アンギアーリの戦い」。フィレンツェのヴェッキオ宮殿にあるヴァザーリの壁画に描かれたフィレンツェ兵士の軍旗に、”CERCA TROVA” (探せ、さすれば見つかる)という文字が発見され、高周波探知機で壁画を調査、その文字周辺の壁の裏側に空洞があるということが分かっている。ダヴィンチの「アンギアーリの戦い」はそのあたりに隠されているのではないか、と調査チームは確信している。ダヴィンチを崇拝していたヴァザーリが、壁画の破壊を看過したはずがないからだ。

Palazzo Vecchio, Firenze
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受け止める心

足元から、乾いた落ち葉を踏みしめる音が立ち上る朝の公園。桜や梅、イチョウ、山茶花、もみじや椿など、植えられている120種類以上の樹々の中でも、入り口から堂々と、訪れる人々を迎え入れているのはケヤキだ。ここにあるケヤキのうちの一本は、幹回り926㎝と区内で最も大きい樹木だと、区の樹木調査に書かれている。

黄色から赤へのグラデーションを作りながら散り、足元を舞う葉の音を聞きながら、毎年思い出すのは子供が幼稚園だった頃。清々しいほどに懐の深い先生の記憶だ。

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好きだけれど門外漢

美術館でのんびり絵を眺めるのは好きだが、美術は素人だ。子供が小学生の頃、一緒に水彩画を習ったことはあるけれど「おけいこ」の域。はっきり言って絵は下手な方だし、美術館に行って絵画を見ても、解説がなければいわゆる「見方」は分からない。有名な絵なら画家や時代背景くらいは分かっても、それ以上は「圧倒されるわねぇ」とか「細かい描写だわ」という感想文レベル。抽象画に至っては「好き嫌い」くらいしか意見は言えない。

つまり見るのは好きだけれど、門外漢。いつか基礎的なことを学んでみたいと思っていたところに、ぴったりのMoocを見つけた。「簡単な美術史」。初心者、素人向け、と書かれていても、実際受講すると結構な基礎知識を必要とするMoocもあって、途中でフェードアウトという経験もあるが、この講義は「できるだけ専門用語を使わないようにしています」というイントロダクションが気に入った。「それでもスフマート(ダヴィンチが始めたといわれる絵画の技法)やオダリスク(トルコのハレムにいた奴隷)という言葉に躓いたらこちらへ」と用語集もついていて、手取り足取りだ。

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GPSの今年らしさ

息子がまだ学校に通っていたころ、子供用の携帯電話で居場所が分かるサービスを利用していたことがあった。ちょうど学校帰りの時間、今どのあたりかな、と何気なくサーチをかけたらなんと彼はカリブ海のキューバにいた。何度サーチをかけても、彼の携帯位置は地図上でヒューンと海を越えていく。いったいどういうことなのか、仰天して買い物を終えたスーパーの前で携帯画面を凝視していたら、ちょうど地下鉄駅から出てきた息子と遭遇。「あなた今、キューバから帰ってきたわけね」と顛末を話して爆笑したことがある。数百メートルならまだしも、国境まで越えられるとさすがにGPSの誤差という次元の話ではないから、まあそういうトンデモな不具合が時々は起きるのがモノと技術の限界、利便性に流されたデータ妄信への戒めとした。

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国境の味

スペイン・バスク地方のレストラン「アスルメンディ」のセカンド、西麻布の「エネコ」で家族のお祝いの夕食をとった。店に着くと、グリーンハウスというダイニングとは別の場所に迎えられ、アペリティフ。ハーブやスパイス、草花が設えられた空間で、パセリでできたバルキートや、ローズマリーで香りづけしたシードルなど味わい、2階のダイニングへ。

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ボッカッチョは読めない

新型コロナウイルスの感染拡大が始まった頃、14世紀のペストが引き合いに出され「デカメロン」の著者、ジョヴァンニ・ボッカッチョが改めて注目された。イタリアでは実際、現代版デカメロンも綴られ、ネットで話題になっている。目下第二波対策で再度の行動制限、各種施設の閉鎖などで、デカメロンの世界はまだ終わりが見えない。そのボッカッチョが書いた文章は、今のイタリア語とはかけ離れていて、「現代語訳じゃないと読むのはかなり困難」とイタリア人のマルコは言う。「ガリレイの書いたものなら読めるけどね」と。

ガリレオ・ガリレイは16世紀だ。ということは、ボッカッチョから200年の間にイタリア語はかなり変化した、ということだ。仮にラテン語を勉強していたらボッカッチョも読める?と聞いてみたが、マルコの答えはノー。語源に近い、ということでもないらしい。日本の昔の文学は今の日本人も読めるの?と逆質問され、源氏物語くらい古いと個人的には現代語訳が必要だけど、14世紀だと鎌倉時代あたり、まあざっくり意味はとれるんじゃないか、と答えたが、正直自信がない。かなりじっくりゆっくり読んでも半分くらいかもしれない。

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Comunicazione digitale

Recentemente, si parla tanto delle cose “online”. Possiamo lavorare su internet, ascoltare il corso su zoom, vedere il film, visitare il museo e vedere la mostra stessa sullo schermo del PC. È abbastanza pratico e potrebbe cambiare il modo di vivere se anche il coronavirus fosse terminato. Però, è possibile davvero di sostituire la comunicazione reale con quella online?

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記念日

長いのか短いのか、時間の感覚はほかのものに負けず劣らず相対的なもの。全体を見渡せばあっという間ではあったし、個々の出来事を思い返せばもちろん、ずいぶん遠くに来た、という一種懐旧の情を免れない長さでもある。今や、「結婚」という形式自体にどれほどの意味が見出せるのか分からない時代にはなっているけれど、結婚前の人生よりもそれ以降の年月の方が長くなり、私にとっての一義的な「家族」は紛れもなく今の家族になっているから、やはり個人的には、結婚という出来事は人生の大きな節目になっている。

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レンズ豆

締め切りが迫っていた長い原稿を仕上げた。家で仕事をしていると、自覚的に時間の管理をしないとあっという間に1日が終わり、なんだか忙しい気がしただけで、大したことはしていなかった、という事態が頻発する。通勤していても、家事と仕事の両立は一つの課題だが、同じ場所で目の前に二つが並んでいると、取り組み方が違う。オフィスに行ってしまえば、部屋が片付いていなくても帰宅するまで手はつけられないから仕事に集中できるけれど、家にいると何となく先に片づけたくなったりして、優先順位を間違うことがある。だから、今日は掃除も洗濯もあと回し、と決めて仕事を始めたら、一区切りつくまで家事は「見ない」ようにする。

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